昭和41年(1966年)6月30日に起きた一家4人殺人事件の犯人として逮捕された袴田巌さん。
連日連夜の厳しい取り調べより自白、その後公判において否認。
袴田巌さんは、死刑判決後に無実を訴え続けました。
そして、逮捕から58年の2024年9月26日に無罪の判決が下されました。
この記事でわかること
- 袴田巌は犯人となぜ疑われたの?
- 袴田巌はどんな人物か?
- 袴田事件の証拠やアリバイ・逮捕に至った理由!
袴田巌は犯人となぜ疑われたの?
袴田巌さんが犯人と疑われた理由は、
- 事件がおきた現場の近くの寮に住んでおりアリバイがないこと。
- 左手中指に怪我・押収したパジャマに微量の血液とガソリンが検出。
これらを理由に犯人と断定されました。
袴田事件の概要
1966年6月30日、静岡県清水市(現静岡市清水区)の味噌製造会社専務宅で火災が発生。
焼け跡からは、専務一家(4人)が刃物でめった刺しにされた死体が発見されました。
袴田巌さんは当時28歳でした。
袴田巌さんは、この会社の従業員で近くの寮に住んでいました。
警察は、当初から、味噌製造会社の従業員であり、元プロボクサーであった袴田巌さんを犯人であると決めつけて捜査を進めた上、袴田巌さんを逮捕しました。
事件発生から約2ヶ月後の8月18日に袴田巌さんは逮捕されました。
連日連夜の厳しい取り調べより自白
袴田巌さんは、逮捕後、連日連夜の厳しい取り調べを受けました。
時には、取調室に便器を持ち込み、トイレに行けないほどの過酷な環境で取り調べが行われていました。
袴田巌さんは追い込まれ、厳しい取り調べの20日目に『自白』を強要されてしまいました。
袴田巌さんは9月6日に自白。
9月9日に起訴されましたが、警察の取り調べは起訴後にも続いたそうです。
自白調書は計45通にも及びました。
しかも、袴田巌さんが弁護人と面会できた時間は、この間合計でたった30分程度でした。
その後公判において否認。
袴田巌さんは無実を主張し、自白は強制的なものであった事を訴えました。
この自白が後に大きな議論の的となり、冤罪を裏付ける一因となります。
袴田巌はどんな人物か?
袴田巌さんの性格は温厚で優しい。
袴田巌さんは、自動車整備の会社で働きながら19歳でボクシングをはじめました。
フェザー級で6位までいったそうですが、優しい性格が災いしてKOのチャンスがきても相手を追い込むことが出来なかったそうです。
袴田事件の証拠やアリバイ・逮捕に至った理由!
袴田巌さんが逮捕された経緯は、アリバイがなかったことが大きかったと言われています。
袴田巌さんは、事件当時、明確なアリバイを示すことが出来なかったことが犯人に疑われた理由ではないでしょうか。
また、警察は、当初から、味噌製造会社の従業員である袴田巌さんを犯人と決めつけて捜査を進めたとされています。
袴田事件の証拠
袴田巌は犯人となぜ疑われたのか?
犯人とて疑われた3つの証拠
- 微量の血液とガソリンが検出されたパジャマ
- 5点の血染め衣類
- 自白調書
左手中指に怪我・微量の血液とガソリンが検出されたパジャマが発見され、これが逮捕のきっかけとなりました。
味噌樽から発見された5点の衣類。この衣類が発見されたのは事件から1年2ヶ月後でした。
発見のタイミングや状態に不自然な点が多数ありました。
警察は、連日連夜の厳しい取り調べを行い袴田巌さんを追い詰め自白させました。
1日平均12時間、最長17時間にも及ぶ厳しい取り調べを行っていました。
まとめ
昭和41年(1966年)6月30日に起きた一家4人殺人事件の犯人として逮捕された袴田巌さん。
連日連夜の厳しい取り調べより自白に追い込まれましたが無実を訴え続けました。
そして、逮捕から58年の2024年9月26日に無罪の判決が下されました。
最後まで読んでいただき有難うございました。
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